抱き米

自分のための生存記録

20190523/演劇レッスン_撮影

起床。個人的な仕事と、演劇のレッスンのために会社は休みをとった。作業をしていたら寝落ちしてしまったためお風呂に入る。あれやらこれやらをリュックに詰めて家を出る。スタジオ撮影は久々で、何か忘れ物があるような気がしてならない。

移動中にライティングの復習をする。スタジオ付近のドトールで朝兼お昼ご飯として期間限定の海老のミラノサンドと黒糖抹茶を頂いた。海老うまい。もぐもぐしながらクライアントと合流し、撮影時間まで少し打合せ。

久々の撮影スタジオで少しテンションが上がる。やや緊張で機材準備。
サブバッテリーは絶対持ってた方がいいし、パソコンとつないでの撮影は確認が楽だし安心という再認識。もっと時間がかかる撮影の場合は充電器も持って行った方が良いかもしれない。
不意打ちでシャッターを押してみたり連写することもあるが、スタジオでの撮影は基本的に一枚一枚カウントしている。他のカメラマンさんはどうしているんだろう。写真を本業としている人の仕事中の様子、いつか見てみたいし聞いてみたい。

いつもつい弱気なことを言ってしまうが、依頼して下さった方まで不安になるような発言をするのは無意味だと最近気付いたので今回は意識して言わないようにした。写真は特に、モデルの感情までそこに写ってしまうこともあるし。難しいけれどなるべく楽しく過ごすことも仕事だと思う。本当に難しい。

解散して演劇レッスンへ。一時間以上余裕があったため教室前のルノアールに入る。早めの夜ご飯のつもりでアイスコーヒーとピザトーストを頂く。結構分厚く耳が固い印象。お昼も食べたしパンは避けたかったけど仕方なし。美味しかった。
通っている教室では本当の自分ならどうするか、自分自身を軸に演技ができるようにするという指導を受けている。 そのため自分自身の感情や記憶と向き合うというメニューもある。逆に、他人を観察したり、相手が何を思っているのか、伝えようとしているのかを感じるという外的な意味でコミュニケーション能力が鍛えらえるようなメニューもある。 まだ3回のレッスン(と4回のワークショップ)だけど、別の視点が得られつつあるように感じる。 あと思ってたよりそんなに恥ずかしさというものは無いな。人に見られてどうしよう、っていうよりも、失敗して迷惑をかけたくないなという部分が大きいという気づきとかもあった。 レッスンの中で他の人から見た自分(ポジティブな意味で)も繰り返しいろんな方法で教えてもらえるので、自分が思う自分と他人が思う自分のギャップも埋められそう。 例えば、私は自分の事を小心者で暗くて愚鈍だと思って生きていたのだけど、教室で会う人達は、明るく見えるけど落ち着いてるとか、よく動く小動物的とか、まとめるとふわふわした少女的な、自分のこととは思えないくらいかわいらしい表現で伝えらえるので驚く。明るく見える要素があるらしいことにも驚く。ぶりっ子かと思うくらい。それに加えて時々独特だとか感情を汲み取り難いだとか言われるが。
言葉を選んだ結果だとしても、多少でもそういう要素があって、そう感じている人がいるということが分かる。私をふわふわイメージで見てた人に対して、「私はこうだから」って冷たく接していたとしたら、かなり悪い意味でギャップだろうな。絶対にやっている。 感情表現が苦手な理由のひとつに「こんなことを言っても大丈夫だろうか」と思うことがあって。その点に関しては、逆に他の人の印象を伝える側になった時に訓練になっている。ストレートな褒め言葉、連想したキーワード、少し言葉を選ぶこともあるがなんでも伝える。人を自分の感覚で褒めても嫌な顔されないという体験。「ほくろがセクシー」とか言っても大丈夫だった。大丈夫じゃない人もいるかもしれないけどとりあえずその人には大丈夫だった。 自分が損する訳じゃないし、相手も面白がったり喜んだり、新しい発見があったりすることもある。最近日常で親しい人を褒めるようになった。前々から思ってたけど、口にはしなかったけど、私の周りは男前女前がとても多い。女前という言葉が正しいのかはさておきいろんな意味で癒されている。最高。 そんな感じでこの日のレッスンも男前の役者さんと花火デートっぽいことをしたり楽しかった。私と組んでそんな感じの提案してくれる方がいるということがまず本当にありがたいし、そういうシチュエーションも勿論勉強したいし、演技だから自信の無さとか関係無しに気軽に女子!みたいなことができるのが良いんだけど、自分から進んで恋愛っぽい提案をするというのはまだ恥ずかしい。自分の番の時は、3mのひまわりに水をあげるとか、UFOと交信して「ヨハネス・デ・レーケ!」と叫んだりしていた。